美術館はもともと落ちぶれた貴族の館だった。その後のブルジョア(の建物)のコピーになり、新しい富裕層が、次第に姿を消していった貴族から遠ざかり、新しい富裕層の責務—残された者(落ちぶれた貴族の教育)—といったリベラルな機能が発達するにつれて、(もとの美術館から)ますますかけ離れたものになっていった。ここで直ちに次のことが明らかになる。つまり、これらはほとんどアートに関係ない—という点が。前世紀の新しい富裕層、つまり今世紀の旧富裕層、そして現今のニュー・リッチは基本的に中産階級なのだ。貴族の一部とは違って、そして無論多くの貴族たちのように、現今の金持ちである美術館のトラスティーたちは、アートに関する何事も知ろうとはしない。単なるビジネスなのだ。文化について考えを持たずに文化を保有するという問題の解決は、金を払って誰か代理人を雇い入れることに帰着する。富裕な中産階級は官僚的だから、何かにつけて老練な者がいる。その結果、アートについてはちっぽけな喜びしか与えられず、どこの誰にとっても、わずかな重要度しか意味しない。美術館は公共施設のコレクションであり、アンソロジーなのだ。幾つかのアンソロジーは良いとしても、アメリカだけで何百というそれが存在しているのは馬鹿げている。それらは永久に新参者の英語で、どこまでいっても文学にはならない。
ドナルド・ジャッド『建築』
2011年11月3日木曜日
しかしながら、この『文化の頑迷』が意味するもっとも危険な知的錯誤の様態とはそれではなく、自分自身への引きこもりとしての文化を、人間が生活にたいして付加する優美さ、または宝石のようにかんがえ、ひいてはあたかも文化や思考を欠いた生活がありえるかのように(あたかも、自分自身への引きこもりなしに生きることができるかのように)、かりそめにもその人の生活の外部にある何かとして提示することにある。人間は、言わば宝石店のウィンドウの前に釘付けにされて、文化を取得するのか、それなしにやっていくのかの選択を迫られる。そして、私たちは現に生き抜いてきた長い年月をつうじて、こうしたジレンマに直面してきたが、今やためらうことなく二つ目の選択肢を極限まで踏査することを決心し、すべての抽象化から逃れる術を探し求めて、全面的な改変にまで身をまかせることは明らかである。
— オルテガ・イ・ガセット
— オルテガ・イ・ガセット
2011年11月1日火曜日
チムシアン族のある村の姫は「カワウソの国」で妊娠して不思議にも「カワウソの子」を産んだ。姫はその子を連れて父が首長をしている村に帰った。「カワウソの子」は何匹かの大きいオヒョウ(ヒラメ科の魚)を釣ってきたので、祖父は同僚である全部族の首長を祝宴に招いた。首長は「カワウソの子」を首長たちに紹介し、その子が動物の姿で魚を取っているところに出会っても、その子を殺さないで欲しいと頼んだ。首長は皆に「これが私の孫です。この子が皆さんにさしあげた食物を取ってきたのです」と述べた。こうして、冬の飢餓の時期に「カワウソの子」が取ってくる鯨やアザラシや新鮮な魚を食べに訪れる客たちが多種多様な贈り物を持ってくるので、祖父は裕福になった。しかし彼は一人の首長を招くのを忘れていた。そこである日、忘れられた首長の部族のカヌーを漕いでいた者が海で大きいアザラシを口にくわえている「カワウソの子」に遭遇した時、これを矢で射殺し、アザラシを手に入れた。祖父と部族の人たちは「カワウソの子」を探し求め、招待を忘れられた部族のところにたどりついた。そこで彼らは「カワウソの子」が殺されたことを知った。この部族の人たちは「カワウソの子」のことを知らなかったと弁解した。「カワウソの子」の母親である姫は悲しみのあまり死んでしまった。知らずに「カワウソの子」を殺した部族の首長は、祖父である首長に償いとしてあらゆる種類の贈り物を贈った。神話は次の文章で終わっている。「こうした事情で、首長に息子が生まれ、命名するときには、これを知らない人がないよう盛大な祝宴を開く」。
ポトラッチすなわち財産の分配は、軍事、法律、経済、宗教のすべてについて「知って貰う」ための基本的行為なのである。
— マルセル・モース「三つの義務:贈与、受領、返礼」 『贈与論』
ポトラッチすなわち財産の分配は、軍事、法律、経済、宗教のすべてについて「知って貰う」ための基本的行為なのである。
— マルセル・モース「三つの義務:贈与、受領、返礼」 『贈与論』
2011年10月28日金曜日
アンリ・サラの作品は新しい感知の形式を可能とするために、よく知った視聴覚経験を転覆させる異化効果を持っている。フランクフルトの展覧会のために、サラは彼の作品である三分間のサイレントビデオ“Cymbal”(2004)を、ヴィデオインスタレーションに作り直し“After Three Minutes”(2007)と名付けた。“Cymbal”は、ストロボの光を反射するシンバルをクローズアップで撮影し、オプティカルな音響効果を作り出している。“After Three Minutes”では、保留と提供との間の相互作用を新しいレベルへと導いている。ヴァージョンが少しばかり変更された“Cymbal”は、ひとつのスクリーンに二重に映写され、同じヴィデオが別のスクリーンで表示されたとしても、美術館の監視カメラの映像は異なったアングルと異なったイメージの質を捕らえている。他の作品では、サラは、フィルターとメディアを通じて、視覚的な情報よりもアコースティックなものに移行している。“Air Cushioned Ride”(2006)は、雰囲気の偶然の一致を捕らえたドキュメントである。駐車場をドライビングしている間、サラは彼のカーラジオからふたつの音楽番組を選び、同時に聴いた。たくさんの大型トラックの存在によって、ラジオの電波はブロックされ、偏向される。カメラは残された貨物自動車の周りを何度も旋回し、音楽はバロック管音楽とカントリー&ウェスタンの間を交互する。サラは、サウンドトラックへの録音とバロック三重奏とカントリー&ウェスタンバンドとの共同パフォーマンスによるライブ演奏へと帰着していった。ここでの演奏はヴィデオとして“A Spurious Emission”(2007)に収められた。スコアも同様のタイトルとして存在し、偶然の/同時発生の音楽の形態として始まり、さらなる置き換えを可能としている。
text by Astrid Mania (berlin-based indipendent writer and curator)
“A Spurious Emission” - Hauser & Wirth
http://www.hauserwirth.com/artists/26/anri-sala/images-clips/5/
text by Astrid Mania (berlin-based indipendent writer and curator)
“A Spurious Emission” - Hauser & Wirth
http://www.hauserwirth.com/artists/26/anri-sala/images-clips/5/
2011年10月23日日曜日
“Miniatures” at Barbel Graesslin
http://angelfloresjr.multiply.com/journal/item/2666
Exhibition Title: Miniaturen
Exhibition Title: Miniaturen
Artists: Helene Appel, Heimo Zobernig, Stefan Müller, Helmut Dorner, Imi Knoebel, Markus Oehlen, Albert Oehlen, Miriam Cahn, Georg Herold, Martin Weidemann, Herbert Brandl, Günther Förg, Maria Brunner, Thomas Werner, Reinhard Mucha, Tobias Rehberger, Hubert Kiecol, Martin Kippenberger, Dirk Skreber, Christa Näher, Meuser, Johannes Esper, Oliver Schuss, Elisabeth Becker, Werner Büttner, Manuel Ocampo
Venue: Barbel Graesslin, Frankfurt
Date: July 11 – August 29, 2009
2011年4月2日土曜日
ストライプつながりで、アンゼルム・ライル(anselm reyle)も気になる作家のひとり。
ブリジット・ライリー風のストライプだけど、オプ・アートと違って錯視じゃなくマテリアルがチカチカしてる。
この手のリフレクション系は安易に見えるけど、その実、「光」を一番の問題とする絵画の表現としてとても真っ当なものだと思う。
つまり、これだけ映像があふれてる世界で、モニターを通さない光を像として捉えることはどういう意味があるのか。
光の反射を知覚することが、身体とマテリアルと関係をどうつなぐことになるのか。
リフレクション系の作品にはそういう関心があるように思います。
あと、錬金術的な関心。
光ってるものを美しいと思い、所有欲を駆り立てられる不思議。
それがチープな素材でも、美しさを持ってしまう不思議。
そういう関心も見て取れる。
アルミホイルみたいな素材。
かなりでかいです(2.5×2.0mある)。
ライルは彫刻もやってて、ジェフ・クーンズみたいな感じの金属塗装の彫刻で、それも良い。
ブリジット・ライリー風のストライプだけど、オプ・アートと違って錯視じゃなくマテリアルがチカチカしてる。
この手のリフレクション系は安易に見えるけど、その実、「光」を一番の問題とする絵画の表現としてとても真っ当なものだと思う。
つまり、これだけ映像があふれてる世界で、モニターを通さない光を像として捉えることはどういう意味があるのか。
光の反射を知覚することが、身体とマテリアルと関係をどうつなぐことになるのか。
リフレクション系の作品にはそういう関心があるように思います。
あと、錬金術的な関心。
光ってるものを美しいと思い、所有欲を駆り立てられる不思議。
それがチープな素材でも、美しさを持ってしまう不思議。
そういう関心も見て取れる。
アルミホイルみたいな素材。
かなりでかいです(2.5×2.0mある)。
ライルは彫刻もやってて、ジェフ・クーンズみたいな感じの金属塗装の彫刻で、それも良い。
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