ラベル

2012年4月14日土曜日

10年ほど前、アーティスト数人が家具としても使える芸術作品を作ったおかげで、家具は芸術作品でありえるかという質問をしばしば受ける。家具は家具であり、それが置かれている状況によって芸術ともなり、同様に建築、陶芸、テキスタイル、その他多くのものが芸術であると言える。私の考えとはほど遠いが、こういった混乱を避けるためにアートギャラリーは家具の展示を回避しようとする。これは、アートギャラリーに展示する事により、家具そのものの価値が高騰してしまう事を防ぐためでもある。私の家具は使い心地がよくないので、機能的でないとたびたび言われる。この質問の裏には、ブルジョアがかったヴィクトリア調家具が提示するものと私の家具が相反する事からきている。私が制作した一連の家具は、私にとっては使い心地がいいものばかりだ。つい居眠りしてしまうような椅子や、そこに居座ってしまうような道具を作るなら、いっそベッドを制作する方が望ましいのだ。食事や執筆作業には、肘掛けのない背もたれがまっすぐな椅子が一番適している。残る人間第三の姿勢は立つ事だけである。

—ドナルド・ジャッド「優れたランプを見つけ出すのは難しい」

2012年4月7日土曜日

60年代中頃、ある人からコーヒーテーブルをデザインしてほしいと頼まれた事を、80年代半ばになって書き記し、それはすでにある長方形のテーブルのテブールトップの埋め込まれた部分を直せば事足りると思っていた。しかしこのアイデアから制作したテーブルは醜く、後で廃棄するはめになった。芸術の形や規模は、家具や建築のそれに置き換えたり、当てはめることはできない。芸術の趣旨と、実用性が必須の家具や建築の目的とは異なるからだ。仮に椅子や建物が実用できず芸術としてしか存在できないのなら、それはとんでもないことだ。椅子の真価とは、芸術に類似する必要はなく合理性や便利性、そして椅子として使用できるのかのその尺度にある。芸術の中にある芸術は、他者の意見はさておき、美術家の概念の強い主張にある。芸術作品はそれ自体に存在意義があるが、椅子は椅子として存在する。だが同時に、椅子の概念は椅子自身の中には存在しない。芸術が家具に成り得ないという理由から、この出来事の後数年間そうした試みをしなかったが、常に建築には興味があり、頭に浮かんだアイデアをスッケチすることは継続していた。

—ドナルド・ジャッド「優れたランプを見つけ出すのは難しい」

2012年3月16日金曜日

我々は、最も高くつく商品を死と不完全化のイメージで宣伝する社会に生きているが、それはそのイメージを、アルファ波を発生する発癌性物質的なリアリティを歪める装置を通じて、何百人もの爬虫類的な小脳に直接的に照準しているのだ——一方で、生命のある種のイメージ(例えば子どもの自慰等、我々の好むところのもの)は迫害され、途方もなく残忍に罰せられる。いわゆる「アート・サディスト」であることはまったく度胸を必要とするようなことではないが、なぜなら猥褻な死が我々の「コンセンサスのパラダイム」の美学的中枢に存在しているからだ。粉飾が好きで「警察と犠牲者」という劇を演じるのを好む「レフティスト」、残虐な写真を前に手淫する人たち、そしてスプラッター・アートやもったいぶった絶望感、かっこいい残虐性や<他の人々の苦痛>について<考えたり>知的に分析したりするのを好む人たち——彼らのような「アーティストたち」は、権力を持たない警官(多くの「革命家」に対しての完璧な定義でもある)以外の何者でもない。我々はこれらの美学的ファシストに投げつける黒い爆弾を持っている——それは精液と爆竹、嗄れ声の駄馬と海賊行為、奇妙なシーア派の異端者、そして泡立つパラダイスの泉、複雑なリズム、生命の脈動、すべての形なく奇矯なものをまき散らす。
 立ち上がれ!呼吸しろ!世界の息遣いを肌で感じろ!その日を掴め!呼吸しろ!呼吸しろ!

—ハキム・ベイ「知性的なS/Mは80年代のファシズムである——アヴァンギャルドは糞を食べるし、それを好む」『T.A.Z.』

2012年1月15日日曜日

もう そこには わたしの家なぞ ないのですが
もう そこにしか わたしの家は ないのです

—水銀ヒステリア「家」

2011年12月11日日曜日

禍いが君の身体に入った。どこかのマチカナリが、君に禍いを起こしたのさ。君がうっかりしていて、マチカナリの道を通ったからだよ。君の身体は、魂のクシュマにすぎない。蚕の繭のような魂を包み込むマント。君の魂は、君のなかに侵入したい禍いから身を守ろうとしたんだ。魂は一つであることをやめ、たくさんの魂に分かれて、禍いを混乱させようとした。禍いは、できる限り魂を盗んだ。一つ、二つ、そして、いくつも。だが、たくさんかき集めることはできなかったのだろう。なぜなら、そうだったら君は完全に死んでいたはずだ。トエの水で身体を清め、湯気を吸いこんだことは悪くない処置だ。しかし、もっと抜かりのないやり方を本当はすべきだった。頭のてっぺんにアチオテの汁を赤くなるまですり込むのだよ。そうしておけば、禍いは君の魂を持って出ていけなかった。そこが、出口であり、入り口だから。アチオテはその道を塞いでしまうのだ。中に閉じ込められたと思うと、禍いは力を失い、死んでしまう。身体は家と同じなのさ。家に入ってきた悪魔は、魂を盗んでも、もっとも高い天井のてっぺんから逃げ出せないのではないだろうか。天井の先端の木を組むとき、なぜ細心の注意を払うのか。それは、寝ている者の魂がたとえ悪魔に盗まれても、その悪魔を逃さないためだよ。身体も同じことだ。魂を失くしたために、身体から力が抜けるように感じたのだ。しかし、それはもう君のところへ戻ってきた。だから、君はここにいる。カマガリーニが眼を離したすきに、魂たちは、キエンチバコリのもとから逃げ出してきたのだろう。君を捜して、戻ってきたのだろう。君は魂たちの住家じゃないだろうか。

—バルガス=リョサ『密林の語り部』

2011年11月24日木曜日



川合健二「川合邸(コルゲートハウス)」
KAWAI kenji _"corrugated house" (Toyohashi, JAPAN), 1966



アセテート|『川合健二マニュアル』
http://www.acetate-ed.net/bookdata/008/008.html

ドラム缶の家
http://machizo7.seesaa.net/article/141235667.html

2011年11月23日水曜日

建物とはすべての人達に気に入られなければならない。このことは、誰にも気に入られる必要もない芸術作品と相違する点である。芸術作品とは、それに対する必要性が何らなくとも、つくられ、世に送り出される。ところが建物は必要性を満たすものだ。芸術作品は誰にも責任を追う者はないのが、建物は一人一人に責任を負う。また芸術作品は、人と快適な状態から引き離そうとするが、建物は快適性をつくり出すのが務めである。芸術作品は革新的であり、建物は保守的である。芸術作品は人に新しい道をさし示し、未来を考えさせる。ところが建物は現在を考えるのである。人間は自分を快適にするものなら、なんでも好きだ。そして自分をそうした快適、安全な状態から引き離そうとするもの、邪魔しようとするものなら、なんでも憎む。このようにみてくると、人は建物、家を愛し、芸術を憎むといってもよかろう。
 かくして、建築と芸術はなんら関係がないのではあるまいか、そして建築を芸術のいちジャンルに加えることはないのではあるまいか? 事実、その通りなのだ。芸術に加わるのは、ごく一部の建築でしかない。それは墓碑と記念碑だ。目的に従事するその他の建築はすべて、芸術の王国から締め出されねばならない。

—アドルフ・ロース「建築について」