新しいパラダイムは古いものから生まれるゆえに、普通、古いパラダイムが今まで使ってきたのと同じ用語や装置、概念や操作を多くつかう。しかし、新しいパラダイムが、古いパラダイムから借りてきた要素を全く同じように使うことは稀である。新しいパラダイムの下では、古い用語、概念、実験はお互いに新しい関係を持つことになる。その結果、適切な言葉ではないかもしれないが、二つの対立する学派間の誤解と呼ぶものに、不可避的に至るのである。アインシュタインの一般相対論を、空間は「曲げ」られるものではないといって――本当はそういう種類のものではないが――嘲笑する素人は、単に間違っているとか誤解しているとか言い切れない。また、アインシュタインの理論のユークリッド版を展開しようとした数学者、物理学者、哲学者も間違っていたわけではない。これまで空間という言葉で意味したものは、平板、等質的で等方性で、物質の存在によって影響を受けないものであった。そうでなければ、ニュートンの物理学はうまくゆかなかったであろう。アインシュタインの宇宙に移行するには、空間、時間、物質、力などのようなすべての概念の編成を作り変えて、全自然に再び敷き直さねばならなかった。その変換を経験した人か、または経験しそこなった人だけが、同意する点しない点をはっきりと見届け得るのである。革命の境界を超える通信はどうしても一面的になる。もう一つ例をとって、コペルニクスは地球が動くと宣言したから気狂いだ、と言った人たちのことを考えてみよう。彼らは全く間違っている、とも言い切れない。彼らが「地球」と呼んだ部分は、固定した位置であった。彼らの地球は、少なくとも動かすべからざるものであった。したがって、コペルニクス革命は、ただ地球を動かすことではなかった。それはむしろ物理学や天文学の問題を見る全く新しい見方であって、それからすると「地球」も「運動」も共に意味が変わってしまうのである。このような変革なしには、動く地球の概念は気狂いじみたものである。一方、一度変革がなされ理解されれば、デカルトもホイヘンスも、共に地球の運動は科学にとって無内容な問題であったと気が付いたのである。
このような例は、対立するパラダイムを同一の基準で測れないことのいま一つの最も重要な面を指摘している。私はどうもこれ以上うまく説明できないが、ある意味では対立するパラダイムの主張者は、異なった世界で仕事をしているのだ。
—トーマス・クーン『科学革命の構造』