ラベル

2013年10月23日水曜日

 人間が一度死んだらそれっきりだというのではなく、生まれかわりとか霊魂不滅とかいうことを信じられたら、どんなにいいだろうと私は思う。ほかの人間になってまた生まれかわるとか、たとえ天国の雲の隙間からでも、朽ち傾いたあばら家の窓ガラスごしにでも、あるいは自分が何かの虫けらになって、その虫けらの目玉を通してでも、その他どんなものに変わってもかまわないから、見ていられたらどんなにいいだろう。どんなにひどい条件をつけられてもかまわないから、わたしはその時その場にいて見ていたい。わたしたちが星に行き着くところを、わたしたちが一つまた多くの宇宙を自分のものにするところを。わたしたちが神になる時を。神なんてものの存在を、まだわたしは信じていないし、これからだって、わたしたち自身が神にならない限り、存在するはずがないと信じているけれど。
 でも、わたしはすでに過去において間違いをおかしたし、今またわたしが信じていることが間違いであるのかもしれない。どうかそうであってくれ。どうかわたしの考えが間違いであるように。神よ、わたしが間違っているということを、はっきり証明してみせてくれ。

―フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』

2013年2月26日火曜日

 人生は思い通りに行かず、既に破綻していたりする。もう、いざという時が過ぎてしまったら、全てを捨てる良い機会だ。仁義を守ることなく、礼儀を考える必要もない。世捨てのやけっぱちの神髄を知らない人から「狂っている」と言われようとも「変態」と呼ばれようとも「血が通っていない」となじられようとも、言いたいように言わせておけばよい。万が一、褒められることがあっても、もはや聞く耳さえなくなっている。

—吉田好兼『徒然草』

2013年2月24日日曜日

 われわれは陸を去って、船に乗り込んだ! われわれはみずから退路を断った――というより、むしろ陸そのものを断ったのだ。さらば、小船よ! 心せよ! お前のかたわらに横たわるのは大洋だ。たしかに、大洋はいつも咆哮しているとはかぎらない。絹と金と優しい夢想のごとくに横たわりもする。だがやがて、その無限であること、また無限よりも恐るべき何者もないことを、悟るような時が来るだろう。おお。わが身の自由を感じ、しかもその無限という籠の壁に衝きあたる哀れな鳥よ! 陸への郷愁が、その陸にはより多くの自由があったかのように、お前を襲うならば、痛ましいことだ!――もう「陸」などはどこにも存在しないのに!

—ニーチェ

2012年8月2日木曜日

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2012年7月25日水曜日

芸術は一台の天秤のようである。一方の皿には、いわゆる自由芸術(モニュメンタル建築、彫刻、絵画、装飾芸術、詩など)が乗り、もう一方の皿には実用性がより強く要求される芸術(都市計画、住宅、技術的発明、実用本位の芸術、ジャーナリズムなど)が乗っている。重心、つまりその時代の真の姿を反映する芸術は、社会的条件がどちら側の見方をしているかによって、一方の端からもう一方の端へと交互に移動しているのだ。ルイ14世の時代には、華麗さと光輝と王位崇拝が第一の社会的必要条件だった。このすべての条件をいかにして満たすかということは、当時盛んに論議された問題であるとともに、仕事に伴う技能を高めたり良質の自由芸術を育てるための、やりがいのある問題だった。他の時代は――今の私たちの時代もそうだが――、社会的条件が専ら実用芸術に仕事をあてがっている。そのため、私たちの時代の不朽の作品や最も特徴的な作品は、日常の実用性との深い関わりの中で生まれるのである。少なくとも実際上の内容に沿って形態(構造)が与えられる多くの仕事においては。


―アルヴァ・アアルト「1927年11月25日付ウーシ・スオミ紙」(ヨーラン・シルツ『白い机』)

2012年7月24日火曜日

最終的に、すべては次のことに帰結します。あなたには選択肢が与えられています。より正確には、それは複雑に絡まり合った選択肢です。自分の仕事に全力を打ち込こんだとしても幸せになれないか、あるいは全力を打ち込まないために幸せになれないことが約束されているか。そのふたつなのです。つまり不確実性をとるか、確実性をとるかの選択肢です。興味深いことに、不確実性を選択することは、心地よいことなのです。


—デイヴィッド・ベイルズ + テッド・オーランド『アーティストのためのハンドブック』

2012年5月24日木曜日

新しいパラダイムは古いものから生まれるゆえに、普通、古いパラダイムが今まで使ってきたのと同じ用語や装置、概念や操作を多くつかう。しかし、新しいパラダイムが、古いパラダイムから借りてきた要素を全く同じように使うことは稀である。新しいパラダイムの下では、古い用語、概念、実験はお互いに新しい関係を持つことになる。その結果、適切な言葉ではないかもしれないが、二つの対立する学派間の誤解と呼ぶものに、不可避的に至るのである。アインシュタインの一般相対論を、空間は「曲げ」られるものではないといって――本当はそういう種類のものではないが――嘲笑する素人は、単に間違っているとか誤解しているとか言い切れない。また、アインシュタインの理論のユークリッド版を展開しようとした数学者、物理学者、哲学者も間違っていたわけではない。これまで空間という言葉で意味したものは、平板、等質的で等方性で、物質の存在によって影響を受けないものであった。そうでなければ、ニュートンの物理学はうまくゆかなかったであろう。アインシュタインの宇宙に移行するには、空間、時間、物質、力などのようなすべての概念の編成を作り変えて、全自然に再び敷き直さねばならなかった。その変換を経験した人か、または経験しそこなった人だけが、同意する点しない点をはっきりと見届け得るのである。革命の境界を超える通信はどうしても一面的になる。もう一つ例をとって、コペルニクスは地球が動くと宣言したから気狂いだ、と言った人たちのことを考えてみよう。彼らは全く間違っている、とも言い切れない。彼らが「地球」と呼んだ部分は、固定した位置であった。彼らの地球は、少なくとも動かすべからざるものであった。したがって、コペルニクス革命は、ただ地球を動かすことではなかった。それはむしろ物理学や天文学の問題を見る全く新しい見方であって、それからすると「地球」も「運動」も共に意味が変わってしまうのである。このような変革なしには、動く地球の概念は気狂いじみたものである。一方、一度変革がなされ理解されれば、デカルトもホイヘンスも、共に地球の運動は科学にとって無内容な問題であったと気が付いたのである。
 このような例は、対立するパラダイムを同一の基準で測れないことのいま一つの最も重要な面を指摘している。私はどうもこれ以上うまく説明できないが、ある意味では対立するパラダイムの主張者は、異なった世界で仕事をしているのだ。

—トーマス・クーン『科学革命の構造』