美術館はもともと落ちぶれた貴族の館だった。その後のブルジョア(の建物)のコピーになり、新しい富裕層が、次第に姿を消していった貴族から遠ざかり、新しい富裕層の責務—残された者(落ちぶれた貴族の教育)—といったリベラルな機能が発達するにつれて、(もとの美術館から)ますますかけ離れたものになっていった。ここで直ちに次のことが明らかになる。つまり、これらはほとんどアートに関係ない—という点が。前世紀の新しい富裕層、つまり今世紀の旧富裕層、そして現今のニュー・リッチは基本的に中産階級なのだ。貴族の一部とは違って、そして無論多くの貴族たちのように、現今の金持ちである美術館のトラスティーたちは、アートに関する何事も知ろうとはしない。単なるビジネスなのだ。文化について考えを持たずに文化を保有するという問題の解決は、金を払って誰か代理人を雇い入れることに帰着する。富裕な中産階級は官僚的だから、何かにつけて老練な者がいる。その結果、アートについてはちっぽけな喜びしか与えられず、どこの誰にとっても、わずかな重要度しか意味しない。美術館は公共施設のコレクションであり、アンソロジーなのだ。幾つかのアンソロジーは良いとしても、アメリカだけで何百というそれが存在しているのは馬鹿げている。それらは永久に新参者の英語で、どこまでいっても文学にはならない。
ドナルド・ジャッド『建築』
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