果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える、杉垣も見える、物干竿も見える、物干し竿に足袋のぶらさげてあるのも見える、其下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の置いて居るのも見える、庭に出してある鳥籠も見える、籠の鳥が餌を喰ふのも見える、さうして一寸尻をあげて糞するのも見える、雀が松の木をあちこちするのも見える、鶸が四五羽つれだつて枯木へ来たと思ふと直に又はらはらと飛んでしまふのも見える、鶯が一羽黙つて垣根をあさりながらふいふいと飛びまはるのも見える、裏戸をあけて水汲みに行くのも見える、向ひの屋根も見える、上野の森も見える、凍つたやうな雲も見える、鳶の舞ふて居るのも見える、四角な紙鳶と奴紙鳶と二つ揚つて居るのも見える、四角な紙鳶がめんくらつて屋根の上に落ちたのも見える、それを下から引張るので紙鳶が鬼瓦に掛つてうなづいて居るのも見える。殊に雪の景色は今年つくづくと見た。山吹の枝に雪の積んだのが面白いといふ事も今年知つた。
—正岡子規「新年雑記」
晩年、脊椎カリエスを患った子規は歩くこともままならずその時間の多くを自室で過ごした。自室の窓が障子からガラス窓に取り替えられたこの日、子規の眼は庭を駆け回り、その言葉は新聞の連載となって全国へと届けられた。無論、届けられたのは子規の生き生きとした眼差し、魂の健康さそのものである。
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