10年ほど前、アーティスト数人が家具としても使える芸術作品を作ったおかげで、家具は芸術作品でありえるかという質問をしばしば受ける。家具は家具であり、それが置かれている状況によって芸術ともなり、同様に建築、陶芸、テキスタイル、その他多くのものが芸術であると言える。私の考えとはほど遠いが、こういった混乱を避けるためにアートギャラリーは家具の展示を回避しようとする。これは、アートギャラリーに展示する事により、家具そのものの価値が高騰してしまう事を防ぐためでもある。私の家具は使い心地がよくないので、機能的でないとたびたび言われる。この質問の裏には、ブルジョアがかったヴィクトリア調家具が提示するものと私の家具が相反する事からきている。私が制作した一連の家具は、私にとっては使い心地がいいものばかりだ。つい居眠りしてしまうような椅子や、そこに居座ってしまうような道具を作るなら、いっそベッドを制作する方が望ましいのだ。食事や執筆作業には、肘掛けのない背もたれがまっすぐな椅子が一番適している。残る人間第三の姿勢は立つ事だけである。
—ドナルド・ジャッド「優れたランプを見つけ出すのは難しい」
2012年4月7日土曜日
60年代中頃、ある人からコーヒーテーブルをデザインしてほしいと頼まれた事を、80年代半ばになって書き記し、それはすでにある長方形のテーブルのテブールトップの埋め込まれた部分を直せば事足りると思っていた。しかしこのアイデアから制作したテーブルは醜く、後で廃棄するはめになった。芸術の形や規模は、家具や建築のそれに置き換えたり、当てはめることはできない。芸術の趣旨と、実用性が必須の家具や建築の目的とは異なるからだ。仮に椅子や建物が実用できず芸術としてしか存在できないのなら、それはとんでもないことだ。椅子の真価とは、芸術に類似する必要はなく合理性や便利性、そして椅子として使用できるのかのその尺度にある。芸術の中にある芸術は、他者の意見はさておき、美術家の概念の強い主張にある。芸術作品はそれ自体に存在意義があるが、椅子は椅子として存在する。だが同時に、椅子の概念は椅子自身の中には存在しない。芸術が家具に成り得ないという理由から、この出来事の後数年間そうした試みをしなかったが、常に建築には興味があり、頭に浮かんだアイデアをスッケチすることは継続していた。
—ドナルド・ジャッド「優れたランプを見つけ出すのは難しい」
—ドナルド・ジャッド「優れたランプを見つけ出すのは難しい」
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