アートは神や国家に同意しないが、美術館はそれを「文化」の名のもとに存続することを許容し、アートが噛み付くかもしれないと神や国家からアートを隔離する。つまり美術館はアートが社会や何らかの共通の出来事に対してある種の効力を及ぼすことを妨げるのだ。これがなぜ特別製の美術館や音楽ホールが存在するのかのひとつの理由である。教会は奇怪な様相を呈した最初のものである。なぜなら、それらはその頃、絶えつつあるものの最後の段階であり、特殊なものと考えられていたからである。それらが復活しつつある現今では、さほど特殊ではない。傑出した「建築」はあるが、通常の建築に良いものは見られない。少数の真の考えは不快なものだ。建築技術と材料は、通常悪い方向においてきわめて保守的である。それらは或る方向を向いていなければならないものである。外観がいずれにしても変化する間に、人口が絶える間に、新しい社会構造全体が考慮なしに生起する間に、変化は一定の外観の枠内では起こることが出来ない。議論でさえも「スタイル」を持つようになる。ニューヨークの美術批評の、どの時期をとっても常に似通っている。現今の建築議論は、古くさい社会学と同じく、偽りの技術論や夥しい詭弁によって荒廃している。私はウィリアム・モリス、バックミンスター・フラー、ルイス・マンフォード —そしてファン・ドゥーズブルグ、ライト、マレーヴィッチ、ミース・ファン・デル・ローエ、ニューマンなど、より一層の文化を形成するに足る力を持つ人達— は、けばけばしいファサードに不適合な、信頼のおける人物であると承知している。
—ドナルド・ジャッド『建築』
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