ラベル

2011年11月24日木曜日



川合健二「川合邸(コルゲートハウス)」
KAWAI kenji _"corrugated house" (Toyohashi, JAPAN), 1966



アセテート|『川合健二マニュアル』
http://www.acetate-ed.net/bookdata/008/008.html

ドラム缶の家
http://machizo7.seesaa.net/article/141235667.html

2011年11月23日水曜日

建物とはすべての人達に気に入られなければならない。このことは、誰にも気に入られる必要もない芸術作品と相違する点である。芸術作品とは、それに対する必要性が何らなくとも、つくられ、世に送り出される。ところが建物は必要性を満たすものだ。芸術作品は誰にも責任を追う者はないのが、建物は一人一人に責任を負う。また芸術作品は、人と快適な状態から引き離そうとするが、建物は快適性をつくり出すのが務めである。芸術作品は革新的であり、建物は保守的である。芸術作品は人に新しい道をさし示し、未来を考えさせる。ところが建物は現在を考えるのである。人間は自分を快適にするものなら、なんでも好きだ。そして自分をそうした快適、安全な状態から引き離そうとするもの、邪魔しようとするものなら、なんでも憎む。このようにみてくると、人は建物、家を愛し、芸術を憎むといってもよかろう。
 かくして、建築と芸術はなんら関係がないのではあるまいか、そして建築を芸術のいちジャンルに加えることはないのではあるまいか? 事実、その通りなのだ。芸術に加わるのは、ごく一部の建築でしかない。それは墓碑と記念碑だ。目的に従事するその他の建築はすべて、芸術の王国から締め出されねばならない。

—アドルフ・ロース「建築について」

2011年11月19日土曜日

19世紀のブルックハルトによれば、ミケランジェロによるラウレンツィアーナ図書館のエントランス・ホールは最も初期マニエリストの実験を体現するものであり、「明らかに偉大なジョーク」であった。しかし、それ以降の世代にとってジョークは次第とはっきりとしなくなり、しばらくの間、目に入るのは原バロック的16世紀のみであったが、1920年代に現代の攪乱のパターンを不思議にも再現する時期が訪れたのであった。このとき、視覚はあたかも決定的に歪曲を受けたかのようであり、視覚的な曖昧さが求められたので、この歪曲によって現代の作品にも視覚的曖昧さが作り出されたし、それ以前は非の打ちどころのないほどに整合されたと思われていた作品のなかにさえ、曖昧さを発見できるようになったのである。従って、もしある時期ルネサンス運動全体を意味する古典主義が、一点の曖昧さもないものにみえ、また別の時期には、エドワード朝の印象主義者的な目から、すべてのものに彼らの自身のバロックとも言うべき官能性をみてとったとすれば、今日という時代は、自分たちの作品にも、あるいは歴史上のものへの評価にも徴されるマニエリスム的な不安定な激しさに対して異常に敏感であると言えよう。かくて、マニエリスムが歴史家によって区分され、定義されたのが1920年代であり、近代建築に倒錯した空間の効果が最も強くもとめられていたと感じられる時期と合致するのも当然と言えよう。

—コーリン・ロウ「マニエリスムと近代建築」


soreq nuclear research center (israel)
designed by phillip johnson

2011年11月17日木曜日

果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える、杉垣も見える、物干竿も見える、物干し竿に足袋のぶらさげてあるのも見える、其下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の置いて居るのも見える、庭に出してある鳥籠も見える、籠の鳥が餌を喰ふのも見える、さうして一寸尻をあげて糞するのも見える、雀が松の木をあちこちするのも見える、鶸が四五羽つれだつて枯木へ来たと思ふと直に又はらはらと飛んでしまふのも見える、鶯が一羽黙つて垣根をあさりながらふいふいと飛びまはるのも見える、裏戸をあけて水汲みに行くのも見える、向ひの屋根も見える、上野の森も見える、凍つたやうな雲も見える、鳶の舞ふて居るのも見える、四角な紙鳶と奴紙鳶と二つ揚つて居るのも見える、四角な紙鳶がめんくらつて屋根の上に落ちたのも見える、それを下から引張るので紙鳶が鬼瓦に掛つてうなづいて居るのも見える。殊に雪の景色は今年つくづくと見た。山吹の枝に雪の積んだのが面白いといふ事も今年知つた。

—正岡子規「新年雑記」


 晩年、脊椎カリエスを患った子規は歩くこともままならずその時間の多くを自室で過ごした。自室の窓が障子からガラス窓に取り替えられたこの日、子規の眼は庭を駆け回り、その言葉は新聞の連載となって全国へと届けられた。無論、届けられたのは子規の生き生きとした眼差し、魂の健康さそのものである。

2011年11月15日火曜日

スミッソンは才気にあふれる文章家である。その文には、難解な専門用語、豊かな修辞、広汎な参照、周到な議論が満ちている。彼が最も盛んに執筆活動をしていた時期(1966 - 1969)が、彫刻からアースワークへの移行期と一致し、無名の芸術の物体から、世界へ侵入してゆく芸術や記号体系に貫かれた芸術への変化期に重なるということは、私には、暗示的に思える。しかしながら、すでに指摘したように、彼の彫刻は、全体の要約や想像される必然性(幻想的な性質のもの)ではなく、複合性と人口性を実証する傾向がある。このように、彼は、1950年代に始まり1960年にまで続いた還元化や本質化の運動に常に抵抗してきたように思える。


中心となる主題は、彼の芸術であり、あるいは少なくとも彼の芸術に内在し、それを導く観念である。彼はヘイドン・プラネタリウムやサイエンス・フィクション、アール・デコやニュージャージーについて書いた。仲間の作歌たちの著述や言語体系としての芸術について、また地質学やメキシコの神話について書いた。彼のデータの特殊性とその複雑多岐な経路を示すために「地層」(1967年)の中の「白亜紀」を引用する。

 グロビゲリナ軟泥層と青味がかった泥。クレタ、ラテン語で白亜(白亜時代)。「グロッタ、地質学、ゴシック・リヴァイバル」と称された論文。浅い水の中に幅広く堆積した緑砂。オーストラリアにある高台地。堆積物の標本。白亜の淵で発見された飛べない鳥の化石。知られざる絶滅の原因。伝説上の海蛇。山に対する古典的態度は暗い。

ローレンス・アロウェイ「ロバート・スミッソン」
サイトとノンサイトは変数相互の関係の集合を構成する。サイトは、地図、写真、類比物(その土地の元の地勢を暗示する箱やトレー)、岩石標本、そして言葉の標題などの形式を通じて作家の提供する情報によって確認される。ノンサイトは、このレファレンスの積み重ねによって、不在のサイトの表示者としてふるまう。スミッソンの抽象彫刻のモデュールが地図に変化するという事態が起こったのである。地図製作術の格子の座標が、モデュール彫刻の観念的幾何学に取って代わった。これは、別の言い方もできる。スミッソンは、ヴィルヘルム・ヴォーリンガーの抽象と感情移入という二元論的体系を拒否しているからである。「幾何学は、非生命的なものの表現として私の心を打つ。純粋抽象の格子や網の目は、自然を一定の秩序に還元する表現や再現でないとすれば、一体なんであろうか」。


『サイト/ノンサイト(破壊の線)、バイヨンヌ、ニュージャージー』(1968)は、ニュージャージーの海岸線についてふれたものである。その崩壊してゆく海岸線にきれいな埋め立てが施されつつあった。スミッソンは、このノンサイトのために使用されているコンクリートの破片をいくつか拾い出した。作家の言葉を引けば、そこは正に「芸術の立場から再度明確化されるべき」荒廃した場所であった。ジャージーの低湿地がここにあり、葦が高く生いしげり、その囲い込む空間を曖昧なものにしている。通行料金所が近くにあるが、そこを出ると入り込むの難しい。スミッソンは、建物を「本質的に名のないもの」と見ている。後に訪れた時、スミッソンは、その風景が急激に変化したことを発見する。完全に埋め立てられた海岸線の方まで工場が建てられていた。ニュージャージーで彼が好きな事のひとつは、それが「変化の過程にある風景」であるという事実である。サイトが変化するように、彼のノンサイトは、死んだ都市(あるいは仮説上の大陸)への記憶という性格を次第に帯びるようになる。ノンサイトのレファレンス・システムは、常に自己自身を取り消す可能性を有している。

—ローレンス・アロウェイ「ロバート・スミッソン」

2011年11月13日日曜日

物中、体は機体を分ち、性は色性を分つ。機体はすなわち天地、色性はすなわち象質。体なる者は物なり、虚実を以て天地の体を成す。機なる者は物に非ず、動止を以て転持の形を成す。是に於て、天中、能く転じ、持中、能く持す。故に機体は物を含して、而して虚中、能く動き、静中、能く実す。物有れば、則ち性有り、是れ一一の常なり。地性は潤湿の液に溢れ、天性は光明の華に漏る。華液はすなわち象質の謂なり。虚なる者は其の気は清なり。而して濁を地に於て託す。実する者は其の性は潤なり。而して乾を天に於て送る。是に於て、地液は質を為して性なり。天清は象を為して色なり。性は潤湿を反して、燥気水質の天地を成す。色は明暗を反して、影気日象の天地を成す。天地、各々天地を有して、而して万物は此の中に成るなり。象なる者は其の体は虚に属す、虚にして而も虚に非ず、是を以て色なり。質なる者は其の体は虚に属す、実にして而も実に非ず、是を以て性なり。体は天地転持を含し、性は日影水燥を合す。水は性を天の影に於て同じくし、而して地上の燥を以て偶す。日は性を地の燥に於て同じくし、而して天中の影を持って偶す。是に於て、水燥は下に塞がり、日影は上に充つ。

—三浦梅園「機体色性」『天地訓』

2011年11月12日土曜日

アートは神や国家に同意しないが、美術館はそれを「文化」の名のもとに存続することを許容し、アートが噛み付くかもしれないと神や国家からアートを隔離する。つまり美術館はアートが社会や何らかの共通の出来事に対してある種の効力を及ぼすことを妨げるのだ。これがなぜ特別製の美術館や音楽ホールが存在するのかのひとつの理由である。教会は奇怪な様相を呈した最初のものである。なぜなら、それらはその頃、絶えつつあるものの最後の段階であり、特殊なものと考えられていたからである。それらが復活しつつある現今では、さほど特殊ではない。傑出した「建築」はあるが、通常の建築に良いものは見られない。少数の真の考えは不快なものだ。建築技術と材料は、通常悪い方向においてきわめて保守的である。それらは或る方向を向いていなければならないものである。外観がいずれにしても変化する間に、人口が絶える間に、新しい社会構造全体が考慮なしに生起する間に、変化は一定の外観の枠内では起こることが出来ない。議論でさえも「スタイル」を持つようになる。ニューヨークの美術批評の、どの時期をとっても常に似通っている。現今の建築議論は、古くさい社会学と同じく、偽りの技術論や夥しい詭弁によって荒廃している。私はウィリアム・モリス、バックミンスター・フラー、ルイス・マンフォード —そしてファン・ドゥーズブルグ、ライト、マレーヴィッチ、ミース・ファン・デル・ローエ、ニューマンなど、より一層の文化を形成するに足る力を持つ人達— は、けばけばしいファサードに不適合な、信頼のおける人物であると承知している。

—ドナルド・ジャッド『建築』

2011年11月8日火曜日

草も人も、どんな事物も、出来合いの仮面をもっていて、それによって執拗な詮索に応じている。私たちは通常、この仮面しか認識していない。事実、人は見られることを望まない。この世界の何ものも見られることを望まない。誰でも眼差しを感じた途端、触れられもしないのに、絵柄のカーテンを引いてしまう。こうして慎みのない人間を煙に巻いてしまうのだ。絵柄のカーテンを手にして踵を返すとき、彼は何かをつかんだと信じている。が、彼はカーテンの背後にあるもの、獣そのものについては何も見なかったし、何も疑わなかった。その獣が姿を見せようという気になり、あなたの眼の前で、あなたが見ていることを忘れて踊り出すようにしむけるには手管が必要である。そのためには、自ら踊ることも必要である。獣へ眼差しを向けていることを、自分自身忘れてしまうことも。

—ジャン・デュビュッフェ『痕跡』

2011年11月6日日曜日


saint sargis monastery of Ushi


saint spring church of Ashtarak


2011年11月4日金曜日

 美術館はもともと落ちぶれた貴族の館だった。その後のブルジョア(の建物)のコピーになり、新しい富裕層が、次第に姿を消していった貴族から遠ざかり、新しい富裕層の責務—残された者(落ちぶれた貴族の教育)—といったリベラルな機能が発達するにつれて、(もとの美術館から)ますますかけ離れたものになっていった。ここで直ちに次のことが明らかになる。つまり、これらはほとんどアートに関係ない—という点が。前世紀の新しい富裕層、つまり今世紀の旧富裕層、そして現今のニュー・リッチは基本的に中産階級なのだ。貴族の一部とは違って、そして無論多くの貴族たちのように、現今の金持ちである美術館のトラスティーたちは、アートに関する何事も知ろうとはしない。単なるビジネスなのだ。文化について考えを持たずに文化を保有するという問題の解決は、金を払って誰か代理人を雇い入れることに帰着する。富裕な中産階級は官僚的だから、何かにつけて老練な者がいる。その結果、アートについてはちっぽけな喜びしか与えられず、どこの誰にとっても、わずかな重要度しか意味しない。美術館は公共施設のコレクションであり、アンソロジーなのだ。幾つかのアンソロジーは良いとしても、アメリカだけで何百というそれが存在しているのは馬鹿げている。それらは永久に新参者の英語で、どこまでいっても文学にはならない。

ドナルド・ジャッド『建築』

2011年11月3日木曜日

 しかしながら、この『文化の頑迷』が意味するもっとも危険な知的錯誤の様態とはそれではなく、自分自身への引きこもりとしての文化を、人間が生活にたいして付加する優美さ、または宝石のようにかんがえ、ひいてはあたかも文化や思考を欠いた生活がありえるかのように(あたかも、自分自身への引きこもりなしに生きることができるかのように)、かりそめにもその人の生活の外部にある何かとして提示することにある。人間は、言わば宝石店のウィンドウの前に釘付けにされて、文化を取得するのか、それなしにやっていくのかの選択を迫られる。そして、私たちは現に生き抜いてきた長い年月をつうじて、こうしたジレンマに直面してきたが、今やためらうことなく二つ目の選択肢を極限まで踏査することを決心し、すべての抽象化から逃れる術を探し求めて、全面的な改変にまで身をまかせることは明らかである。

— オルテガ・イ・ガセット

2011年11月1日火曜日

チムシアン族のある村の姫は「カワウソの国」で妊娠して不思議にも「カワウソの子」を産んだ。姫はその子を連れて父が首長をしている村に帰った。「カワウソの子」は何匹かの大きいオヒョウ(ヒラメ科の魚)を釣ってきたので、祖父は同僚である全部族の首長を祝宴に招いた。首長は「カワウソの子」を首長たちに紹介し、その子が動物の姿で魚を取っているところに出会っても、その子を殺さないで欲しいと頼んだ。首長は皆に「これが私の孫です。この子が皆さんにさしあげた食物を取ってきたのです」と述べた。こうして、冬の飢餓の時期に「カワウソの子」が取ってくる鯨やアザラシや新鮮な魚を食べに訪れる客たちが多種多様な贈り物を持ってくるので、祖父は裕福になった。しかし彼は一人の首長を招くのを忘れていた。そこである日、忘れられた首長の部族のカヌーを漕いでいた者が海で大きいアザラシを口にくわえている「カワウソの子」に遭遇した時、これを矢で射殺し、アザラシを手に入れた。祖父と部族の人たちは「カワウソの子」を探し求め、招待を忘れられた部族のところにたどりついた。そこで彼らは「カワウソの子」が殺されたことを知った。この部族の人たちは「カワウソの子」のことを知らなかったと弁解した。「カワウソの子」の母親である姫は悲しみのあまり死んでしまった。知らずに「カワウソの子」を殺した部族の首長は、祖父である首長に償いとしてあらゆる種類の贈り物を贈った。神話は次の文章で終わっている。「こうした事情で、首長に息子が生まれ、命名するときには、これを知らない人がないよう盛大な祝宴を開く」。
ポトラッチすなわち財産の分配は、軍事、法律、経済、宗教のすべてについて「知って貰う」ための基本的行為なのである。

— マルセル・モース「三つの義務:贈与、受領、返礼」 『贈与論』